Thu. May 14th, 2026

2025

隙があったので自分を語る(3)

それからは夜な夜な、真夜中の時刻になるなるとズガガガガ、ギィーギィー、バンという音がし始めたのでした。木の壁を切り裂いて侵入しようとしているみたいでした。私の寝室は二階にあり和室ですが、畳の下には空間があり、壁とつながっていて外から虫が入れるようになっています。私が眠りにつくか着かないかという時に、彼は私の寝ている畳の真下に来て、何時間もウロウロしていました。 家から出ていけ、さもなくば首を切ってやるぞと脅しているかのように。引越し当初掃除していて見つけた、前に住まわれていた方が残していったであろう血だまりとドアに残してあった手形の血痕が頭を横切りました。 私はうるさいぞと畳や壁を叩いたり音を出したりしましたが、全く止まる気配がありません。それから数日同じような攻防が続きました。しばらくしてから昆虫王は去っていきましたが、ヤモリ君と闘って敗れたのか、興味をなくして去っていったのかはわかりません。 私は峰を連ねる山々を見るのが好きです。地方は自然が多く、木々が生い茂っていますので空気も新鮮でおいしいです。移住してから私は多くの感銘を受けましたー動物の知能がとても高いという事に気づきましたし、植物や昆虫、自然と密に接していくうちに私の内在する考えも変わったように感じます。 生命とは何なのかその問に頭を悩ませながら今日も一日平穏無事であることを願っております。

ご利用は計画的に~(3)

ユダヤの人々はトーラを54の部分に区切り、一年周期で読み継いてきました。文字が読めなけれなばトーラを唱えることはできません。そのためにユダヤ人は教育熱心にならざるを得ず、他国民に比べて圧倒的に識字率が高くなりました。近世に多くの知的巨人が生まれたのもこれがその由縁だったのです。 世界各地に散らばったユダヤの人々は商業、貸金業を生業としていました。「トーラ」では厳格で過干渉な神の掟が多く決められていますが、異民族に対する金貸しについては寛容でした。 ユダヤ教には「兄弟に利息を取って貸してはならない。金銭の利息、食物の利息などすべて貸して利息のつく物を取ってはならない。外国人には利息を取って貸してもよい。これはあなたが、あなたの神があなたのする事に祝福を与えられるためである」(申命記第23章) とあります。こうして利子を取る事を全面的に禁止するキリスト教世界でユダヤ人が金貸しとして生きることを可能にしていきました。

赤十字が彼方に光るとき(2)

「日本赤十字社カ此ノ如ク速二進歩セルモノハ、国民カ皇室ノ威徳ニ則リテ之ヲ拡充セント欲スルノ力、頗ル多キニ居レリ」 という日本赤十字社の言葉のように、発足してから日清戦争までの間、日本赤十字社は4万人の社員を抱えるまで成長していったのです。 自然災害の多い日本では、近代国家の成立以降、災害愛国主義ともいうべき社会現象が多くみられました。郷土愛や愛国主義は自然災害に際しての救護や援助に直接結びつきました。 日本赤十字社が最初に行った救護活動も戦時ではなく、自然災害に対する救護でした。世界には数多くの赤十字社がありますが、世界で初めて災害援助をしたのが日本赤十字社でありました。 1901年、赤十字社とジュネーブ条約を提唱したアンリ・デュナンは第一回ノーベル平和賞を受賞します。「来るべき危険が何であるかを理解し、文明社会が抱える問題に直面しながらも諸国間の平和と友好に尽くしてきた」 彼の意志を継承し人道的な、慈愛に満ちた社会になって行くことを望んでやみません。 <引用: 小菅信子 著、日本赤十字社と皇室、吉川弘文館>

よってらっしゃい、見てらっしゃい(3)

箸を持った若旦那は「この香りが目鼻につーんと来るところが何とも言えない贅沢」と吐き気を抑えながら腐った豆腐を口に入れました。江戸っ子から「これは何という食べ物ですか」と聞かれると、「これは珍しい酢豆腐といいやす」と若旦那は答えました。 「そんなに妙味ならもっと召し上がってください。」と勧めましたが、「これは一口に限るものでげす。私のような通が食べれば酢豆腐と言うが、あなた方が食べればただの腐った豆腐でゲス」と答えましたとさ。 目黒のさんま 秋の日、ある殿様が馬で目黒まで遠出をしました。元気を持て余した殿様は家来と山まで競争しますが、すっかりお腹を空かせてしまします。弁当の準備をしていない家来はすっかり困ってしまいます。そうこうしているうちにさんまを焼く匂いが漂てきました。 殿様が「この匂いは何であるか」と問われました。家来は「さんまの匂いでございます。」と答えましたが、上等な魚しか食べたことのない殿様はさんまなど知りません。家来は「下魚にございまして、お口に合わないと存じます」と説明します。が、空腹に耐えかえた殿様はさんまを持ってくるように命じました。

ご利用は計画的に~ (2)

カナーンの地を拠点に活躍するユダヤ人は最初の家長アブラハムの移住からローマ帝国による占領まで約1600年続いたとされています。 よくニュースで聞く「嘆きの壁」はA.D66年にユダヤ教の司祭がローマ皇帝に生贄を捧げるのを拒否して始まった戦争でローマ軍に壊されずに残された神殿の西壁なのです。 ローマ軍による占領で19世紀までの間の2000年間、ユダヤ人は世界の各地に散らばることになり、広域で活動する商人になっていきました。 エルサレム神殿の喪失はユダヤ教に大きな変化を持たらしました。世界の各地で散り散りになった小さな共同体に適応して行かなければならなかったからです。 ユダヤ人は失われた神殿に代わり旧約聖書の最初の五書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」をユダヤ教の経典としました。これらはモーセが与えられた「十戒」が核となっています。全体を総称して「トーラ」と呼び、生活の中で繰り返し唱えることが決められています。

よってらっしゃい、見てらっしゃい(2)

江戸っ子のひとりが昨日の豆腐が残りがあったことを思い出し、与太郎に聞いてみると、窯の中にしまっておいたと言います。暑い中、一晩中窯の中に置かれた豆腐は見事に腐っていて酸っぱい匂いがしてきます。 捨てるしかないと諦めたところに、町の若旦那が通りかかります、この若旦那は二枚目気取りのキザな男で江戸っ子からは嫌われておりました。そこでこの嫌われ者に腐った豆腐を食べさせよう二江戸っ子たちは画策します。 呼び止められた若旦那は「どうも、美男子のお揃いで」と招きに応じます。江戸っ子たちは「大した女泣かせだ」といって若旦那をおだてて、いい物を貰ったと腐った豆腐を見せます。 若旦那は知らないと言えずに「これは私のような通が食べる物だ」と答えました。「でしたら差し上げましょう」という事になりましたが、食べたくない若旦那は「持ち帰って晩酌の肴に」と逃げようとします。江戸っ子たちはそれではいけないと若旦那はを引き留め、とうとうその場で食べてもらうことに成功します。

赤十字が彼方に光るとき(1)

先日、青森県を震源とする地震がありましたが、こうした震災発生時に人道支援や救助活動をしてくださる日本赤十字社。どういったものなのでしょうかご存じですか? 19世紀半ば以降、通信技術の進歩とジャーナリズムの発達を端として、戦勝と市民の距離が近くなりました。戦場ジャーナリストが活躍し始めるのもこの頃からだったと言われます。痛ましい戦場の様相はその翌日には新聞に載り、各家庭の食卓を賑やかにしました。こんなに兵士が戦場で苦しんでいるのに、放置せずに救って上げるべきだという声がでたのです。 負傷兵の置かれた悲惨な状況を目の当たりにしたアンリ・デュナンは、1864年に赤十字を作り、赤十字条約を提唱しました。 欧米列強との不平等条約の改定を目指し、文明国になる事を悲願した日本は西洋文明を取り入れていきました。そのうちの一つが戦場における人道主義の受容、赤十字運動だったのです。 1887年、赤十字条約加盟から一年後日本赤十字社の発足を巡って、初代佐野常民社長が昭憲皇太后にお目にかかられ、社章をどのようにしたらよいか迷っていると申し上げました。皇太后はかんざしをお示しになり、模様の桐竹鳳凰を使ったらよかろうと仰せになられました。 桐、竹、鳳凰の文様は古来より、高貴・瑞祥の印として用いられてきました。日本赤十字社に対する皇室の支持で赤十字は日本で発展を遂げる事が出来たのであります。

ご利用は計画的に~(1)

みんな大好きなお金、それはどこからやってきてどこへと向かうのでしょうか貨幣システムを生み出したユダヤ人について見ていきましょう。 長い間祖国を追われ第二次世界大戦後にイスラエルを建国した流浪の民、レオナルド・ダビンチ、チャップリンやフロイトのような天才など、色々なイメージがユダヤ人にはあると思います。 大航海時代以降、資本経済の成長は貨幣システムに大きな変革をもたらしました。貨幣の需要が大きくなり、銀で補いきれなくったからです。約400年間続いた「銀貨の時代」は「紙幣の時代」へと変わっていきました。 フランスとの長期に及ぶ植民地戦争の戦費不足と国債の発行により、銀貨の調達が難しくなったイギリスは手形を変形させた紙幣に頼らざるを得ませんでした。そうした場面で頭角を現したのが、貨幣のスペシャリストーユダヤ商人でした。 ユダヤ人の歴史 ユダヤの人々の足跡を辿ると紀元前1500年頃に世界史に登場したヘブライ人にまで遡ります。ヘブライとは川の向こう側から来た人の意味で、また遊牧民だったユダヤ人の呼び名でもありました。

よってらっしゃい、見てらっしゃい(1)

最近めっきり若者に人気がない落語ですが、面白いお話を紹介していきたいと思います。 落語には滑稽な笑い話があれば、人情噺、怪談もあります。伝統的な古典落語の多くは江戸時代に成立し上方と江戸の両方で発展してきました。学校で習ってきた歴史ではわからない庶民の生活を知れるのも醍醐味だと言えるでしょう。 初期の落語は道端で演じられたため、辻囃とも呼ばれました。やがて芝居小屋や風呂屋、料亭などで演じられるようになりましたが、専門の演劇場が誕生したのは江戸の後期になります。昭和になり、戦時色が強くなると落語を中心に数多くの囃が上演を禁じられます。戦後復活した落語はテレビの放送とともに再び多くの落語家によって語り継がれるようになったのでした。 酢豆腐 夏の暑い日に江戸っ子たちが集まって酒を飲もうという話になりました。お酒はどうにかなりましたが、肴がありません。古い漬物を探し出し、刻んで水にさらせば良いおつまみになるという提案が出ましたが、臭い桶に誰が手を突っ込むかでまた一悶着になります。

隙があったので自分を語る(2)

次に出会ったのはヤモリでした。目はワニのようにギラついていて肌は黄色です。ゴキブリなど昆虫を捕食しているようでした。 特に敵意も感じられなかったので目と目で会話をした(つもり)私はその場を立ち去りましたが、彼はなんと食べたゴキブリ一匹につき、家に設置してあるゴキブリホイホイの周りに糞をして帰っていったのです。 一つ、二つ、三つと...昨日食べましたよ、家の害虫を退治しましたよとでも報告をしてくれているようでした。 そして私は昆虫王に出会います。なんの種の昆虫かわかりませんが、丸々と太っていて空気配管に入るか入らないかくらいの大きさの虫でしょうか。 私が洗面台でコンタクトを取り外していると、どこからともなく現れた彼は、私の周りをゆっくりと回りだしたのです。慌てるでもなく急ぐでもなく、品定めをしているように。私は気が動転していたのでよく覚えていませんが、手のひらサイズの大きさだったように思います。 時は12月、昆虫がほとんど居ない冬に彼は元気に走り回っていたのです。