Thu. May 14th, 2026

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パンダは語る!(2)

パンダが日本に招かれてから50年以上の期間に渡って飼育展示されてきました。まさに客寄せパンダであり、観光資源としての役割を担ってきました。その総数は40頭近くになりますが、個々のパンダがいた期間は10年ほどでありました。 パンダが初来日した1972年はパンダブームが起こり、その後も日中両国の記念行事などを経てパンダは徐々に日本社会に溶け込んでいきました。パンダの出産などが社会的な出来事として報道されることで人々の青春の1ページとして記憶されていったのです。 国宝としてのパンダ 日中戦争のさなか、蔣介石率いる中華民国は首都の南京を失った後、中国南西部の重慶に撤退して日本軍への抵抗を続けていました。蔣介石は日本軍に勝つためには国際社会を巻き込むことが必要だと考えアメリカの支援を得るために送ったプレゼントがパンダでした。 パンダ外交を発明した国民党は、第二次世界大戦後、中国共産党との内戦に敗れ台湾に撤退します。パンダは捕獲の難しい動物だったため、パンダの管理は中国共産党政権が引き継ぐことになりました。 <宇都宮健太郎 著、語るパンダ、朝日新聞社出版>

もうクマったな~(2)

北海道の開拓は1869年、明治政府が「開拓使」を設置して始まります。ヒグマの縄張りである森林を伐採して農地や牧場にするので当然ヒグマによる人身事故も発生します。 当時、北海道に住んでいたアイヌの人々は外出時に刃物や鹿角を持って音を出し、ヒグマの気分を損ねないようにしていたそうです。 アイヌの人々は、神を善益をもたらすピリカカムイと不幸をもたらすウェンカムイに分類しました。アイヌと神の世界は、天界、地上界、地界とから成り、生活している自分自身と神が扮装する動植物、神の霊魂が宿る岩、川に分かれていました。 天界の最上層には、天津神(カント・コロ・カムイ)がいるとされ、雨、雷、雪などは天津神の御業とされました。 地界の最下層、第六層は地獄とされ、悪神、ウェンカムイのいるところであり、祟りや病魔などを伴て襲い掛かってくるのだとされました。 アイヌの人々はヒグマを山の神だと考え、山奥にある天界では人間と同様の姿で同様の生活をしており、人里に降りてくるときは、天界の黒い羽織を着ている為、人間の眼には真っ黒な獣の姿に写っていると考えていたそうです。

パンダは語る!(1)

パンダが中国に返還され、国内飼育のパンダは私を残すのみとなりました。とても感慨深く思っております。 自分がいざ注目の的になってみると、それはとても心地よくないことに気づきます。観客の一人として野次馬根性であーだーこーだーいう分には気が楽でしたが… 私が小さい頃に聞き及んで特に気にも止めていなかったことが、最近のこの年になってはっと気づかされることがあります。 これも人生なのでしょう。 パンダの発見者はフランス人ダビィド神父でした。1869年、中国四川省西部を旅していた彼は地主の家で白地に黒の模様のある大きな動物の毛皮を見せられます。地主の説明によると、その動物はパイシオンと地域の人々に呼ばれ、中国とチベット国境の山地に生息していると聞かされます。 ダビィド神父はさっそく現地の人を雇い、標本や成獣の皮を手に入れました。パンダが竹を主食にしている事などの情報も集め、新種として記録したのです。

もうクマったな~(1)

今年の漢字が「熊」に選ばれました。北海道に多く生息しているヒグマ、なぜ冬眠中に筋力は衰えないのでしょうか? ヒグマは冬眠中でも何かあると、素早く飛び出し走ることができます。数か月の冬眠をするヒグマですが、冬眠中は一切の摂食、飲水、排せつを行いません。人間は長期にわたって動かなかったり、飢餓状態が長く続くと筋肉を分解して熱源に変えてしまうため、歩くのもままならなくなります。 ヒグマは冬眠中のエネルギーのほとんどを、秋の間に貯めた脂肪から得ますが、脂肪からエネルギーを取り出す過程で、尿素などの代謝物質が作られます。その代謝物質はまた腎臓と膀胱から再吸収され、アンモニアに分解されます。 分解されたアンモニアは肝臓に戻り、タンパク質の元になるアミノ酸を新たに生成するために再利用されていたのです。つまり、冬眠中のヒグマは排尿は行われないのですが、実際には尿は作られ、その尿を再利用することで筋肉の中からタンパク質は減らず、筋肉も弱くならない独自のメカニズムを持っていたのです。

もうすぐ一年が終わりますね(2)

彼岸会 生死流転する此岸から涅槃である彼岸に至るという意味で、現世という迷いの岸から、悟りの岸へ渡る事をいいます。彼岸会の法要をする事については、7世紀の唐の高祖善導大師が日想観という行法を行い、日没の場所である真西を極楽浄土と観相すべきであると説いた事からきております。 灌仏会 四月八日を釈迦の生まれた日として祝う行事です。釈迦の誕生仏を水盤に置き、上から五色の香水を掛けたことから灌仏会と言われるようになりました。誕生仏を花で飾った花御堂に安置するので、花祭りとも呼ばれます。 灌仏会が日本の文献で登場したのは「日本書紀」でありました。飛鳥の元興寺で執り行われたと記されています。 天王祭り 疫病をもたらす牛頭天王を祀るお祭りです。お祭りをすることで疫病から免れると信じられてきました。病気が流行りやすい夏場、6月中旬に天王祭りはおこなわれてきました。 ダラダラと家で過ごすのも大変宜しいですが、外に出て新たな発見をし、色々と見て回られるのは楽しいと筆者は思いました。

そろり~そろり~(2)

そんな狂言ですが、戦後、時代の変化と学術・芸術的な再評価により、狂言はようやく日の目を見ることができました。 狂言の演技は、立ち姿、基本の歩き方、ほとんど全ての動きに型があります。笑う場合も、大きな笑い、、中くらいの笑い、小さな笑いなど、身体の角度から声の出し方まで型が決まっています。リアルな表現でなく、型のくっきりした動きの積み重ねが芸術になっていくのです。 能楽堂に一歩足を踏み入れると、大きな屋根の付いた能舞台が目に入るでしょう。これはかつて能舞台が野外に建てられていた事から来ています。 客席も普段の劇場とは違い、舞台を取り囲むようにして三つのエリアに分かれています。「正面見所」と呼ばれるエリアからは、演者の顔の表情がよく見えますが前後の動きはよく見えません。「中面見所」は舞台を斜めから見る事になるので、全体をバランスよく見ることができ、立体的に舞台空間を楽しめる事ができます。 行かれた事がある方も、久々な方も一度狂言を見に足を運んでみてはいかがでしょうか?修行を積んできた名人たちの卓越した芸を、ジャンルを超えた新たな挑戦をぜひ劇場で!

もうすぐ一年が終わりますね(1)

一年が終わりに近づいてきました。クリスマスにお正月、行事が目白押しです。日本で行われている年中行事、マイナーなものからメジャーなものまでいくつご存じですか? 年賀状 平安時代の手紙の模範文集である「雲州消息」にある年始挨拶状の文例が最も古いのとされています。近世には諸大名が年始の年賀状を将軍に届けたとされ、武士や商人なども遠く離れた親戚や知人に年始の書簡を送っていました。 今のような年賀状が普及したのは明治時代になってからの事で、明治四年の郵便制度発足後の明治七年に年賀はがきが販売されそれ以降徐々に年賀状を出す習慣が定着していきました。 涅槃会 釈迦が入滅したされる日に行われる行事で、お寺では涅槃図を掲げて法要を営みます。涅槃図は釈迦が涅槃に入ったときの姿を描いたもので、釈迦が沙羅双樹の木の下に伏しており、その周りを弟子や獣、鳥、昆虫が取り囲み嘆き悲しむ様子が描かれています。 この日に涅槃団子を作る地域は多く、米粉や小麦粉で団子を作りお供えをしています。旧暦二月十五日は釈迦の入滅の日とされていますが、望月の日でもあり、農作業の開始時期にもあたることから、農耕儀礼の折り目でもありました。

究極の命題、生命としての概念 (2)

現在、地球上には38万種の植物が生息していると言われています。陸地に誕生した最初の植物は海から移り住んできた藻類でした、時間が経つにつれてそれは広葉樹、針葉樹へと進化していきます。イチョウの木などは1億年前に誕生したと言われています。ギネス記録にある最も高い木はセコイアで100メートルを超えるそうです。 十七世紀に哲学者デカルトは普遍学を唱えました。それは自然界のものはすべて数学的に認識できると考えたもので、「目に見える森羅万象」を数式に変換しようとしたものでした。 人間は物体を見る際、自らの経験、学習による「知識」からその物体をどのようなものか評価していきますが、「知識」を持たない場合、過去の経験から物事を類推するしか方法はなくなります。新たなものを発見したとき私たちは理解しようと無意識に類似点を見出そうとするのです。 動物の行動は必ずしも「知識」に基づいていません。蜘蛛が糸を張り巡らせるのは、そこに獲物がいるわけではなく、クワガタの幼虫が木の中に潜り羽化するのも本能というプログラムによるものです。

そろり~そろり~(1)

狂言をご存知ですか?私がうそぶいている記事のことではなく…汗。伝統芸能の事にございます。筆者も学生の頃に学校の催しで一回行ったきりですが、あの頃はよくわからずにボケっと見ていただけでした。つぶさに見て参りましょう。 現在では狂言だけの催しもしばしばありますが、もともと能と狂言は同じ芸能から発生し、セットで上演されるものでありました。 ルーツは奈良時代に中国から伝わった「散楽」で、当時は曲芸、奇術など大衆芸能全般を指しておりました。平安時代になると「猿楽」と呼ばれ、滑稽な物まね芸が中心になってきます。 能は音楽性と物語性を重視していく型が発展しやがて観阿弥・世阿弥の登場により大成しました。狂言はその陰に隠れ、従属的な存在となっていきました。 運よく徳川幕府で猿楽が武家の式楽に定められ、政府のお抱えとなる事が出来ましたが、明治維新により猿楽師はまた生活に困るようになりました。明治政府は能が外交に相応しいと考え、呼び方も「猿楽」ではなく「能楽」に改めました。

よってらっしゃい、見てらっしゃい(4)

家来はさんまを焼いていた者に小判を渡してさんまを譲り受けます。ふだん鯛ばかり食べている殿様は黒々として脂ぎったさんまを見て不安になりますが、箸をつけて見るとすっかり気に入ってしましました。完食してしまった殿様だったのですが、庶民が食べる下魚を殿様に食べさせたとあっては外聞が悪いので、家来はこの件を口外しないように殿様を言い含めます。 屋敷に帰った殿様はさんまの味が忘れられず、また食べたいと願いましたが、家来に忠告されているのでさんまの事は口にできません。 そんなある日、殿様は他の大名に客人として招かれます。先方が「なんでもご希望のものをこしらえましょう」というので、喜んだ殿様はさんまを注文しました。大名のお抱えの板前は上等な魚しか料理したことがなく、「さんま」といわれて驚きましたが、失礼があってはならないと日本橋から極上のさんまを取り寄せました。 殿様は待ちに待ったさんまを食べれると喜びましたが、綺麗に処理されているので以前に食べた時のようにおいしいと感じませんでした。殿様が「このさんま、どこより仕入れた」と聞くので、「日本橋でございます」と返答しました。それに対して殿様は大真面目な口調で「それはいかん、さんまは目黒に限る」と言ったそうです。 これは当時の大名が庶民の暮らしを知らず、珍しくもない目黒のさんまを高級品だと思い込んでしまったという話でした。そこには現代社会にも通じるものが江戸時代にもありました。